8月16日記
すでに新聞でも報道されたとおり、元特殊法人社会保障研究所研究部長、日本社会事業大学名誉教授三浦文夫先生が8月3日に逝去されました。86歳でした。私の恩師は学部時代の清水幾太郎先生、研究者となってからの三浦文夫先生でした。
謹んでご冥福をお祈りします。
以下に、三浦先生を偲んで先生に導かれた私の研究の半生記を記した文章からの抜粋を掲載します。
「三浦文夫先生に教えられたこと」
(立教大学コミュニティ福祉学部紀要第一号 1999年3月刊)から改題して抜粋
私の研究歴のなかでは、コミュニティを指向した福祉システムの研究は自明の前提でありつづけていた。大学院時代に青井和夫教授の指導をうけて生活構造論(注1)と出会ったことから、特殊法人社会保障研究所での三浦文夫第三研究部長(当時)にみちびかれながらの本格的な福祉研究へ踏み込んで以来、コミュニティとのかかわりで福祉のありかたを考えてきたというのが筆者の歩みであった。
以下に、やや私記風ではあるけれども1970年代から80年代にかけて自己形成をした一研究者がいかにしてコミュニティと福祉という概念に出会うことになるかについて書き付けておく。
Ⅰ 在宅福祉サービスの登場
社会保障研究所は特殊法人として、佐藤内閣時代の経済成長のひずみの是正ということをうけて「経済開発」に対置する「社会開発」という政策概念の登場を奇貨としてもうけられた厚生省の管轄に属する研究機関であった。当時、福武直東大教授が社会学の立場から役員として関係されており、三浦文夫研究第三部長を中心に社会保障および社会福祉についての社会学的な研究が行われていた。私がこの研究所に就職したのが、東大闘争の余塵もさめやらぬ1971年であった。
1 高齢者実態調査から
その時代はまさに、人口高齢化の幕開けの時代であった。私は入所してすぐ東京都が実施する老人福祉基礎調査に三浦部長の指示によって参加した。この老人福祉基礎調査は東京都における包括的な老人実態調査のはしりであり、生活構造という概念を下敷きに高齢者の包括的な生活実態の把握をおこなったものであった。(注2)
ちょうどこれに先だって、全国社会福祉協議会が民生委員モニター活動を通じて「寝たきり老人」が発見され、そろそろ要介護高齢者問題が俎上にのりはじめる時代であった。
筆者はこの調査でいくつかの調査項目の分析を担当するととともにひとり暮らし高齢者の実態把握の分析を担当した。このことが後に、神奈川県での民生行政基礎調査でひとりぐらし高齢者調査を実施することとなり、この調査を機縁に、当時指定都市に昇格したばかりの川崎市の社会福祉審議会の審議に参画することとなり,そこで生まれてはじめて審議会の答申なるものの原案の起草作業を当時の籠山京上智大学教授の指導によりながら手がけることとなった。(注3) その時の籠山教授の指導のなかで答申とは簡潔明快をもって旨とするということを繰り返し述べられたことがいまでも強く印象に残っている
この答申の骨子は第一に地域におけるひとり暮らし老人の生活形態の多様性をふまえ、画一的平均化したサービスにとどまることなく地域特性に即したサービス方法の開発の必要性を述べ、サービスの提供にあたって得られる経験をフィードバックして、サービスのありかたを改善していけるようなソフトな政策体系の構築、地域での実験的な取り組みの必要性などを強調し、そのうえで特にニーズとサービスを結びつける「レフェラルサービス」の機能を組織化することを重要視し、生活の場でニードを発見しサービスと結びつけるために、第一に老人のニードを生活の場で発見できるような、公私のネットワークづくり、第二に、既存の福祉サービス組織におけるレフェラルサービス機能の充実、第三にサービスへのアクセシビリティを高めるために、行政広報の活用、サービス利用を容易にするための諸手続の改善を求め、第四に、緊急の福祉ニードに対応するための「救急福祉サービス」機能の充実を提言した。そして今後の対策の基調を「地域ケア」の推進を強調し、老人が孤立化することなく、地域の中で生活が享受できるような条件整備のため、公私協働が可能となる拠点設定、第二に地域ケアの前提として地域住民の活動を可能とする受け皿としての各種サービスの調整機能の確立、第三に地域住民をはじめとする民間と行政の協力に基づく、地域ケアの組織化を求めた。(注4)
この答申は後に、三浦文夫先生からソーシャルアドミニストレーション的視点からの老人施策への提言として望外の評価をいただくこととなった。
これらの高齢者の実態調査と審議会での答申作成の過程で、当時の施設処遇を前提とした老人福祉対策の限界を悟ることとなった。ひとり暮らし高齢者は低所得高齢者である限りは老人家庭奉仕員派遣事業等の恩恵に浴することができたが、その対象とならない高齢者は地域社会からひっそりと孤立して生活することを余儀なくされる生活を続けざるを得ず、低所得による生活困窮ばかりではなく様々な社会関係性の希薄化による孤立孤独の問題こそ高齢者問題の核心であるということを学んだ。
このような調査研究のなかで次第に調査をふまえた政策研究のありかたについて三浦部長の特訓をうけつつおぼろげながらその道筋を理解するようなってきた。
2 「在宅福祉サービスの戦略」の研究を巡る社会福祉の課題
当時、社会保障研究所は全国社会福祉協議会の所有する社会事業会館に居をかまえていた。全国社会福祉協議会は文字通り民間社会福祉事業団体の総本山として施設や民生児童委員をはじめとする社会福祉事業団体の利害を代表するとともに、戦後改革の一環として全国市町村に設けられた社会福祉協議会の全国団体の中心でもあった。その意味で施設福祉と地域福祉の双方から社会福祉のありかたをリードする存在であった。
三浦部長は後に全社協の事務局長を務められた永田幹夫氏とくんで社会福祉協議会活動の方向転換を意図したさまざまな調査研究に関わってこられた。全社協は文字通り福祉の業界団体の束ねの役割がもっとも大きな役割と考えられるが、それとともに全国津図浦々に組織された社協は地域組織化活動を通じて、社会福祉ニーズに直面して住民の立場からの社会福祉活動に取り組まなければならない。
そのような社協活動の転換を意図しつつより長期的な一環としておこなわれた研究が昭和52年に発足し、54年に報告書が公表された「在宅福祉サービスの戦略」(注5)であった。
この在宅福祉サービス研究会は当時、イギリスのシーボーム報告の影響を受けつつ論議されたコミュニティケアの概念を我が国に定着させようとすることをねらいとしていた。我が国でも高度経済成長の結果、社会福祉サービスへのニーズが広く拡大する兆しが諸所にみられた。しかしながら、社会福祉は要援護層への対策として、低所得者対策の域をでていなかった。多くの社会福祉サービスには所得要件を付され、文字通り選別的なサービス性格が維持され続けていた。そのために多くのニーズが排除され、またそのことが社会福祉の内実を狭隘なものにしていた。これをイギリスのシーボーム報告で提起されたようなパーソナルソーシャルサービスとして転換を図ることが、拡大する社会福祉ニーズへの対応をはかるために必要と考えられた。
このような問題意識は昭和46年に出された中央社会福祉審議会の「コミュニティ形成と社会福祉」の答申とこれに先立つ東京都社会福祉審議会の答申の問題意識であった。この審議会の中心メンバーは三浦文夫氏と松原治郎氏(当時東大教育学部助教授)であった。
そして徐々に「地域福祉」という概念が政策概念として政府の文書にも登場するようになってきた。たとえば昭和50年の社会保障長期計画懇談会の報告書では「社会福祉需要の在代と多様化、高度化に対応するためには今後在宅福祉サービス等の充実等、地域福祉を中心とする観点から見直しをはかり、福祉施策全体のバランスと体系化を図っていく必要がある。」と述べられた。
当時の社会福祉の状況でいえば、施設福祉に収斂し、低所得対策の域をでていなかった社会福祉を拡大することは、社会福祉の戦線の拡大を意味する。しかしながらそのことは社会福祉の制度の改革と同時に社会福祉のサービス提供の基盤の拡大を必要とする。これは措置の受け皿としての社会福祉施設経営者を中心とする社会福祉事業者の利害を相対化することが求められる。これを当時団体の連絡調整と地域組織化活動を目的として活動してきた社会福祉協議会にサービス提供機能を加え、市町村の福祉サービス提供機能を拡大し、施設中心の福祉から市町村を基盤とした福祉サービス提供組織の再構築が課題となることを意味する。
おりから従来の社会福祉概念の狭隘さを批判して、市民福祉という概念が松下圭一氏をはじめとする自治体研究者や当時拡大してきた革新自治体の首長からも提起されるようになってきた。
また、福祉見直し論と知られる神奈川県の長洲一二知事(当時)の昭和50年の発言は大きな反響を呼んだ。「福祉とは何でしょうか・・・行政の福祉と、地域住民の福祉がともに責任を負う必要がある。・・行政の福祉には責任と同時に限界がある。・・行政の福祉に魂をいれていくのはやはり地域住民のコミュニティの福祉です。」(注6)というように新しい視野で従来の社会福祉の限界を見据えた発言がおこなわれた。
3 「在宅福祉サービスの戦略」の意義
在宅福祉サービス研究会は厚生省や全社協のメンバーとともに、仲村優一日本社会事業大学教授を座長として、多数の研究者及び実務家が加わった。この研究会で和田敏明全社協地域福祉部長(当時)や故杉森創吉日社大教授と知遇を得たことも忘れ難い。
この研究会をリードし、様々な概念を提起したのは、やはり三浦文夫氏であった。この研究会で、社会福祉政策論の鍵概念となるいくつかの概念が提起された。
この研究会のポイントを指摘すれば次のようになる。(注7)
第一に社会福祉の処遇理念としての「居宅処遇原則」の確立にかかるものとして、プライバシーや自由の確保を旨とし、施設の隔離性と閉鎖性のを克服しさた在宅による福祉サービスの展開を構想したことである。
第二に、社会変動に伴う家族機能の動揺のなかで家族扶養が期待できないために社会福祉サービスを必要とするケースが増大し、これらの場合直ちに施設処遇を提供するのは非現実的である。したがって、ニードを家族をはじめとするニード充足が何らかの事情で不可能、不十分な場合に社会的にニーズ充足が必要とされる場合。及び、本来的に家族などの私的な方法ではニーズ充足が困難で当初から社会的ニーズ充足が求められるニーズを識別した。当初三浦氏は即自的ニーズ、対自的ニーズという概念を提起されたが、理解が得られずこの概念は使われなくなってしまった。
第三に、もう一つの重要なニーズ概念が非貨幣的ニーズ、貨幣的ニーズという概念がある。これは社会福祉を公的扶助制度と分離させるための構成的概念として提起された。経済市場でのニーズ充足は現金給付施策で対応できる。この種のニーズは金銭給付で対応できる貨幣的ニーズと呼ばれ、人的役務サービス、今日でいうヒューマンサービスとして対応すべき非貨幣的ニーズとよばれ、所得保障とサービス保障の明示的な分離を誘導するための概念として設定された。
このようのニーズ概念の彫琢を媒介として、社会福祉ニーズの多様化と高度化とういうトレンドの分析が行われることとなる。
このニーズ概念は社会福祉政策分析のための概念であり、従来行われていた実体的なニーズ概念を克服し、適切な政策を導き出すための操作的な概念として利用されるべきものとして提起されたものである。そしてこのような社会福祉ニーズの高度化と多様化に対応するサービスシステムの再構築の方向性のなかから社会福祉の供給システムの多元化を前提とした社会福祉組織論が生まれることになる。
しかしこのような論議は公的責任を実体的にとらえてきた、既存の社会福祉研究者にはこの点の理解がなかなか得られず様々な批判にさらされることになった。
在宅福祉サービスは社会福祉ニーズに対し、ニーズを有する人々の生活の場で、人的サービス、現物や情報の提供などの「リアルサービス」によって充足をはかるという性格を有する。このような在宅福祉サービスの性格からみるとサービス提供を組織化にあたってはサービス提供組織を人々の生活の場としての地域社会において組織化されていなかればならないことを意味する。家族機能を代替補完する日常生活援助サービスと家族では提供困難な専門的サービスから在宅福祉サービスが構成されるからサービスは日常生活圏のレベルから専門サービスの利用範域まで重層的に地域社会に内部化されて組織化されていなければならない。
このことはニードの発見から判定、提供が地域社会を基盤に展開していなければならないことを意味するし、このためには行政諸機関、諸施設、民生委員、ボランティアをはじめとする地域住民が地域社会を基礎として公私の協働態勢が整っていなければならない。
また多様なニーズへの対応ということは専門サービスと非専門サービスを結びつけ、また他分野のサービスとの連携とネットワークも必要とされる。
そしてこのような社会福祉供給システムの分析軸をして、サービスの直接提供のレベル、サービスの直接提供組織が必要とするマンパワー、情報、機器、施設等資源調達のレベルされに資源調達とサービス提供のための費用調達のレベルを識別することが必要とされる。このようなサービスの供給システムの概念構成がサービスの多元化論のための分析概念として提起されることとなる。
この研究会はその後の社会福祉改革論を導くいくつかの概念を生み出すことになった。その前提となったのが社会福祉の転換についての論議である。
Ⅱ 社会福祉の転換論の展開
以上のような研究経験のなかで社会福祉理論枠組みの検討の培養基となったのは社会保障研究所での同僚諸氏との交流であった。とりわけ、大学院での同期であった小林良二氏が研究所の同僚として机をならべることができたのは幸せなことであった。氏はもともとマックスウェーバーの学説研究を専攻する社会理論指向の社会学者であった。大学紛争の時代をかいくぐりながら研究を実証研究にシフトし、社会保障研究所に入所することとなった。氏は後にイギリスに留学し、帰国後ほどなく都立大学に転任したために同僚として仕事をした期間は決して長くはなかったけれども、氏とそして上司である三浦部長そして保坂哲哉研究第一部長などと交わした俗称ペダン亭となづけたティータイムでの多種多様な論議はさまざまなアイディアの発酵の媒体となった。とりわけ小林氏の歴史と理論に通じた論議から得るものはかけがえのないものであったし、三浦部長の審議会からの生々しい報告、厚生省での勤務経験をつうじた政策調査のあり方につうじた保坂部長の経験談などは理論と政策と調査の交錯をつうじて新しい社会福祉理論の方角を見定めるのに重要な示唆を与えてくれたものであった。
(後略)
注
注1 青井和夫、副田義也、松原治郎編 『生活構造の理論』 昭和46年 有斐閣
注2 拙稿 「老人の生活構造」『季刊社会保障研究』昭和47年10月号 東大出版会
注3 川崎市社会福祉審議会 川崎市におけるひとり暮らし老人対策等の具体的方法について 昭和50年7月
注4 拙稿 「新しい段階を迎えた地域福祉」 『月刊福祉』 昭和51年7月号 全国社会福祉協議会
注5 昭和54年刊行 全国社会福祉協議会出版部
注6 週刊東洋経済50年8月号
注7 拙稿 「在宅福祉サービスの供給体制の課題」 『月刊福祉』 昭和53年3月号 全国社会福祉協議会